何かの折にこれの一場面を観たのか、サリエリがモーツァルトを死に至らしめたという視点から描かれた作品だと話にだけ聞いたのだったか、出会いのきっかけは忘れてしまいましたが、偶然にもスクリーンで見る機会に恵まれたので逃すまじと行って参りました。
主人公が才能を自負する系統としては、「リバティーン」で描かれたロチェスター伯を思い出しますが、彼とは対照的な印象でした。若年というのもあってか才能のひけらかし方ひとつ取っても、謙虚を知らない大きな態度でさえもからりとしていて、寧ろ爽快感がありました。昔に読んだ伝記漫画では、“なぜ巧く行かないのだろう?”と素直に苦悩してしまうような整った天才として描かれていましたが、もともと少し破天荒で傾(かぶ)いて居たものが、やがて本当の狂気に犯されたようになり、終いに来てふっと正気に返る。そんな描写がとても好ましかったです。「魔笛」上演中に昏倒し、運び込まれた自宅のベッドに埋まりながら、敵視に近い眼差しで睨んでいたサリエリに、少年のような真っ直ぐな言葉で詫び、眠る間そばに居てくれるよう頼む、まさにこの流れのことです。
コンスタンツェが夫の直譜を、内密にサリエリ邸に持ち込んだとき、彼が譜面を手に旋律の中をうっとりとたゆたう様から、モーツァルトの頭の中に洪水の如く溢れ泡立ちうねり狂う旋律が海と湛えられているのが凄く伝わりました。モーツァルトのいちいちに、嫉妬・敬愛・友愛を滾らせるサリエリの表情は見事です。才能は、正気と狂気の狭間を紙一重に危なげに行き来し、ふとした拮抗の乱れでどうしてか不徳な方へ暴走するのですね。
せめぎ合うものがレクイエムでひとつになり、片方の死によって再び分かたれてしまった。かつての神童は天上で神の音楽となり、残された方はひっそりと罪を排泄し、洗い流そうとしてまたその記憶にまみれているのである。
音楽とドラマが直結した素晴らしい絵巻物でした。午前十時の映画祭にて鑑賞。