「シングルマン」
2015.12.06 Sunday
コリン祭3作目。タイトルだけ聞いたことがあったけれど、全く前知識なし。予告編さえも見たことがありませんでした。どんなお話?どきどきしながら蓋を開けたら…とても美しいものでした。。
コリンが演じるのは、恋人を交通事故で亡くした初老?の大学教授ジョージ。8ヶ月経ったいまでも、心の時計は恋人と過ごした日々で止まっているような感じで、ひとりぽっちの家、汗に光る若者の肉体、同じ色の虹彩などなどに彼の幻影を重ねていました。生きる気力を失ってしまって、自殺を企図するジョージ。普段と変わらない日常をこなしつつ、身辺整理をしてゆく中、恋人を想起させるもの・或いはそれに匹敵する思い出に出会い彼の中の希望に光が差すと、色褪せた世界が体温を取り戻して血が通ったように鮮やかになる。この手法はたぶんどこかでも見たことがあるけれど、その色の具合がとても絶妙でした。あ、いま変わった。というのが最初はあまりわからなくて、移民の若者と出会ったときは花が開くようにふわっと変わったのがわかりましたが、生徒ケニーとの交流が描かれる終盤になって、そういえば色がすっかり戻ってきている、と気づきました。色が戻るときの多くは、出会う人々に恋人を見るとき。若者をじっと見つめることもたびたびながら、嫌らしい感じにならないのは、役者に備わった気品と、ジョージがただ純粋に恋人を愛し、偲んでいるからなのかな、と。こういう場面も、ただただ切ないのです。本当に願うものが彼のところに戻ってきてくれないから。
ジム(恋人)の突然死のようなとても受け容れがたい衝撃的な出来事を経験し、それでも日常は自分を取り残して何ら変わらず回ってゆく。少し前までキラキラしていたものが遥か遠く、深い水の底から太陽を見るように遠くにあるのはわかるけれど、悲しみとか絶望が水の底に身体を引きずり込んで、重くて。そんな動けないような感覚を、コリンの演技と背景を彩る音楽が合わさったときに、物凄く感じました。悲しみに暮れるというか、そこを既に越えてしまって、いつもしぼんでいるような、なんとなく活気がない。それが普通になってしまった薄曇りの佇まいと、たまにふっと見せる微笑みとかがえらく色っぽいのです。
遺書まで書いて(『ネクタイはウィンザーノットで』なんて小洒落た文面、これにもきっと彼の深い心象とか人間関係に関する含みがありそうな気がする、或いはただのこだわり?)、去る準備を整えたジョージでしたが、ケニーとの交流で“生きてきたこと・生きていること・生きてゆくこと”と向き合えたのかな。世界の色は鮮やかなまま、ジョージは遺書を暖炉にくべます。が、その夜のうちに持病で息を引き取ってしまうのですね。せっかく未来への希望を抱いたジョージが。この世での悲劇、しかしあの世でのハッピーエンディングを思わずにはいられませんでした。だって、スーツでめかしたジムが、今際の際に来てくれたのですから!とても美しく幸せな幕切れに見えました。
ちょっと追記。ジムとジョージがふたりで本を読みながら話しているところ(お互いを大事に思っているのがすごく伝わる)と、ジョージが運転しながら向かいの家のぼくに指鉄砲を構えるところも好きな場面です。言ってしまえば、どの瞬間も貴くて大好きなのだ…!
※12月7日 2回目鑑賞後に追記
じわりじわりと染み入ってくるものがあったので、もう一度見ました。
無知でお恥ずかしい限りですが、ウィンザーノットってネクタイの結び方のことだったのですね。卓上にきっちりと揃えたのは、死後をも整える、何と言うか、生き方の美学みたいなものだったのかな。“然るべく”在るべし。
もうひとつ、何を見ていたのだろうという感じでショックだったのですが、ちゃんと浮上する描写がありましたね。光が差し込んで橙に染まった水の中を、不意に活力を得た身体が呼吸をして。
セリフに織り込まれた伏線も、物語を知って見ると重みが全然違って聞こえました。“死が未来だ”を発した時点ではまだ水の底にいるなとか。“週末は?”“週末はいたって静かにしてる”と交わしながら帰路に就くとき、チャーリーは明らかに酔っ払っているのに、ジョージにはそういう感じがあまりないどころか既に違う道を歩いているようにも見えたり。それとか、カルロスが口にした彼の母の言葉“恋人はバスのようなもの”を、ケニーとの交流を経て色彩を取り戻した“明晰な瞬間”に思い出していただろうかとか。
見れば見るほど色々な感想が自分の中に浮かんで来そう。
コリンが演じるのは、恋人を交通事故で亡くした初老?の大学教授ジョージ。8ヶ月経ったいまでも、心の時計は恋人と過ごした日々で止まっているような感じで、ひとりぽっちの家、汗に光る若者の肉体、同じ色の虹彩などなどに彼の幻影を重ねていました。生きる気力を失ってしまって、自殺を企図するジョージ。普段と変わらない日常をこなしつつ、身辺整理をしてゆく中、恋人を想起させるもの・或いはそれに匹敵する思い出に出会い彼の中の希望に光が差すと、色褪せた世界が体温を取り戻して血が通ったように鮮やかになる。この手法はたぶんどこかでも見たことがあるけれど、その色の具合がとても絶妙でした。あ、いま変わった。というのが最初はあまりわからなくて、移民の若者と出会ったときは花が開くようにふわっと変わったのがわかりましたが、生徒ケニーとの交流が描かれる終盤になって、そういえば色がすっかり戻ってきている、と気づきました。色が戻るときの多くは、出会う人々に恋人を見るとき。若者をじっと見つめることもたびたびながら、嫌らしい感じにならないのは、役者に備わった気品と、ジョージがただ純粋に恋人を愛し、偲んでいるからなのかな、と。こういう場面も、ただただ切ないのです。本当に願うものが彼のところに戻ってきてくれないから。
ジム(恋人)の突然死のようなとても受け容れがたい衝撃的な出来事を経験し、それでも日常は自分を取り残して何ら変わらず回ってゆく。少し前までキラキラしていたものが遥か遠く、深い水の底から太陽を見るように遠くにあるのはわかるけれど、悲しみとか絶望が水の底に身体を引きずり込んで、重くて。そんな動けないような感覚を、コリンの演技と背景を彩る音楽が合わさったときに、物凄く感じました。悲しみに暮れるというか、そこを既に越えてしまって、いつもしぼんでいるような、なんとなく活気がない。それが普通になってしまった薄曇りの佇まいと、たまにふっと見せる微笑みとかがえらく色っぽいのです。
遺書まで書いて(『ネクタイはウィンザーノットで』なんて小洒落た文面、これにもきっと彼の深い心象とか人間関係に関する含みがありそうな気がする、或いはただのこだわり?)、去る準備を整えたジョージでしたが、ケニーとの交流で“生きてきたこと・生きていること・生きてゆくこと”と向き合えたのかな。世界の色は鮮やかなまま、ジョージは遺書を暖炉にくべます。が、その夜のうちに持病で息を引き取ってしまうのですね。せっかく未来への希望を抱いたジョージが。この世での悲劇、しかしあの世でのハッピーエンディングを思わずにはいられませんでした。だって、スーツでめかしたジムが、今際の際に来てくれたのですから!とても美しく幸せな幕切れに見えました。
ちょっと追記。ジムとジョージがふたりで本を読みながら話しているところ(お互いを大事に思っているのがすごく伝わる)と、ジョージが運転しながら向かいの家のぼくに指鉄砲を構えるところも好きな場面です。言ってしまえば、どの瞬間も貴くて大好きなのだ…!
※12月7日 2回目鑑賞後に追記
じわりじわりと染み入ってくるものがあったので、もう一度見ました。
無知でお恥ずかしい限りですが、ウィンザーノットってネクタイの結び方のことだったのですね。卓上にきっちりと揃えたのは、死後をも整える、何と言うか、生き方の美学みたいなものだったのかな。“然るべく”在るべし。
もうひとつ、何を見ていたのだろうという感じでショックだったのですが、ちゃんと浮上する描写がありましたね。光が差し込んで橙に染まった水の中を、不意に活力を得た身体が呼吸をして。
セリフに織り込まれた伏線も、物語を知って見ると重みが全然違って聞こえました。“死が未来だ”を発した時点ではまだ水の底にいるなとか。“週末は?”“週末はいたって静かにしてる”と交わしながら帰路に就くとき、チャーリーは明らかに酔っ払っているのに、ジョージにはそういう感じがあまりないどころか既に違う道を歩いているようにも見えたり。それとか、カルロスが口にした彼の母の言葉“恋人はバスのようなもの”を、ケニーとの交流を経て色彩を取り戻した“明晰な瞬間”に思い出していただろうかとか。
見れば見るほど色々な感想が自分の中に浮かんで来そう。